🪵 八人町のすぐ北には、材木が集まったという「木町の浜」があった
- 八人町のすぐ北には、大正のはじめまで神通川が流れていた(いまの松川のあたり)
- 神通川といたち川が合わさるところは「木町の浜」と呼ばれ、飛騨から流されてきた材木を陸に上げ、舟で大坂へ送ったという説がある
- すぐ北の今木町も、材木の集まる町だったと考えられている。八人町は「船頭が8人住んでいた」と伝わる町
- 富山の城下町には「材木町」「木町」「船頭町」という町名もあった
コメントありがとうございます!古地図の動画に「荒町 八人町小学校のあたりが材木町と言われていた所以が気になります」というコメントをいただきました。今回は、八人町のあたりがなぜ「材木」と結びつくのかを、明治・昭和・いまの地図と、富山市や辞典の資料で調べました。
明治・昭和・いまの地図で見る、八人町と木町の浜

左の明治43年(1910年)の地図では、文のマーク(学校)の横に「八人町」の文字があり、そのすぐ北に、川幅の広い神通川の流れが描かれています。中の昭和43年(1968年)の地図では、川はなくなり、町が北へ広がっています。右のいまの地図で、木町の浜のあたりは、ビルや道路が並ぶ町なかです。
地図:「今昔マップ on the web」(谷謙二)より作成/国土地理院 地理院タイルを加工して作成。印は富山みっけが付けたもので、おおよその位置です
木町の浜は、舟が行き来する川の港だった
江戸時代、神通川(いまの松川)といたち川が合わさるあたりは「木町の浜(きまちのはま)」と呼ばれていました。下流の東岩瀬までの約2里(約8km)を、40石積みの舟が行き来していたそうです。
「木町」という名前については、上流の飛騨から川に流されてきた材木をここで引き揚げてたくわえ、また舟に積んで大坂へ送る、材木の集まる場所だったから、という説が紹介されています(郷土史家・廣瀬誠さんの説)。年貢の米も、木町の浜から舟で運び出されていました。
出典:GOOD LUCK TOYAMA「たくさんの舟で賑わった木町の浜」(2011年9月号)(元の資料は『富山市史 通史〈上〉』、廣瀬誠『神通川と呉羽丘陵』など)
今木町も八人町も、川とともにあった町
八人町のすぐ北にある今木町(いまきまち)は、北側をいたち川が流れ、すぐ神通川と合わさる場所にあった町です。町名は、材木の集まる町として、木町に続いてできた町という意味だろう、と考えられています。
八人町(はちにんまち)の名前は、天保12年(1841年)の記録に、船頭が8人いたという言い伝えから、と書かれています。慶長(1596〜1615年)のころの有力な町人「八人衆」にちなむ、という説もあります。富山市によると、八人町の東側には昔のいたち川が流れていた跡があり、この言い伝えは古い事実を伝えている可能性がある、とされています。江戸時代前期の絵図では、八人町は「荒町と木町の境界付近」から東にのびる町並みとして描かれています。
出典:平凡社『日本歴史地名大系』(コトバンク:今木町・八人町)/富山市「鼬(いたち)川」(『天保12年富山町方旧事調理帳』を引用)
城下町には「材木町」という町もあった
富山市の資料には、富山の城下町に、住む人の仕事を表す町名が多く残っていたとあります。その中に「材木町」「木町」「船頭町」「大工町」などが並んでいます。
ただ、この「材木町」が正確にどこにあったのかは、今回調べた資料では確かめられませんでした。八人町のあたりが「材木町」と呼ばれていた理由は、材木にちなむとされる木町・今木町が、すぐ隣に並んでいたからかもしれません。
出典:富山市「富山城下町の歴史」
昭和5年の地図には「…木町」の文字

明治43年の地図で「八人町」と書かれていた場所には、昭和5年(1930年)の地図では「…木町」と読める文字があります。1文字目はつぶれていて、地図からは読み取れません。
地図:「今昔マップ on the web」(谷謙二)より作成
川がなくなって、町の中に
明治34年(1901年)から36年にかけて、神通川の流れをまっすぐにするための水路(馳越線・はせこしせん)が造られました。この水路は洪水のたびに広がり、大正3年(1914年)の洪水のあと、昔の川筋には水がほとんど流れなくなりました。残った川の跡は、昭和3年に決まった都市計画の事業で埋め立てられ、木町の浜のあたりは町の中になりました。いまも、材木にちなむとされる「今木町」の町名が残っています。
出典:国土交通省「日本の川 神通川」/GOOD LUCK TOYAMA「たくさんの舟で賑わった木町の浜」(2011年9月号)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 寛文6年(1666) | 富山の絵図に「今木町」の名が見える |
| 天保12年(1841) | 記録に、八人町の名は「船頭が8人いた」言い伝えから、と書かれる |
| 明治34年(1901) | 神通川をまっすぐにする水路(馳越線)の工事がはじまる |
| 大正3年(1914) | 洪水のあと、昔の川筋に水がほとんど流れなくなる |
| 昭和3年(1928) | 都市計画の事業が決まり、川の跡が埋め立てられていく |
| いま | 八人町・今木町の町名が残る |
出典:平凡社『日本歴史地名大系』(コトバンク:今木町・八人町)/富山市「鼬(いたち)川」/国土交通省「日本の川 神通川」/GOOD LUCK TOYAMA「たくさんの舟で賑わった木町の浜」(2011年9月号)
古地図を重ねたリール動画
明治・昭和・いまの地図を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
八人町のあたりは、神通川といたち川が合わさる、川の港のそばの町でした。船頭の町と伝わる八人町と、材木にちなむとされる木町・今木町が並んでいたことが、「材木町と言われていた」ゆえんなのかもしれません。
「あの場所は昔どうだった?」というリクエストがあれば、動画のコメントで教えてください。富山みっけが調べます!



この記事は2026年11月4日時点の、富山市・国土交通省の資料、『日本歴史地名大系』、地域誌の記事をもとに書いています。地図は「今昔マップ on the web」(谷謙二)と地理院タイルから作成しました。




