🏯 富山城のお堀は、明治から昭和にかけて少しずつ埋められ、いまは一部だけ
- 明治になって城の土地が払い下げられると、外堀は少しずつ埋め立てられた
- 学校やお寺を建てるときは、有志が神通川などから石や砂を運んで堀を埋める「砂持奉仕」が行われた
- 空襲のあと、がれきで北側の堀、城址大通りをつくるため東側の堀が埋められた
- 昭和37年に西南の隅が埋められて、いまの形に
富山城址公園のお堀は、いまは一部しか残っていません。明治・昭和・いまの地図を並べて、お堀がどう埋められていったのかを見ていきます。
明治・昭和・いまの地図で見る、本丸のまわりの堀

左の明治43年(1910年)の地図では、本丸のまわりを堀がぐるりと囲んでいます。北側には、昔の神通川の広い川原も見えます。
中の昭和43年(1968年)の地図では、本丸の北側と東側の堀がなくなり、右のいまの地図では、南側を中心に堀が残っています。
地図:「今昔マップ on the web」(谷謙二)より作成/地理院タイル
明治に払い下げられた城の土地と、外堀の埋め立て
| いつ | できごと |
|---|---|
| 明治3年 | 三之丸の中が順に開墾され、練兵場になる |
| 明治のはじめ | 城の土地が払い下げられ、要らなくなった外堀が少しずつ埋め立てられて、建物が建っていく |
| 明治18年 | この年の市街図では、埋め立てがかなり進んでいる |
出典:富山市郷土博物館「富山城址の変遷」
神通川などから石や砂を運んだ「砂持奉仕」
学校やお寺を建てるときには、「砂持奉仕(すなもちほうし)」が行われました。有志が神通川などから石や砂を運び、堀を埋め立てる作業を奉仕で行ったものです。
とくに、本願寺の東別院と西別院の砂持奉仕は大規模でした。富山は浄土真宗の門徒が多い土地柄で、多くの門徒が熱心に奉仕したそうです。
出典:富山市郷土博物館「富山城址の変遷」
空襲のあとに埋められた北側・東側の堀と、昭和37年の西南の隅
| いつ | できごと |
|---|---|
| 空襲のあと | 焼けた瓦などのがれきを片づけるため、北側の堀が埋め立てられる |
| 戦災復興 | いまの城址大通りをつくるため、東側の堀が埋め立てられ、城址の南東の角も削られる |
| その後 | 西側も、建物が建てられるたびに埋め立てられていく |
| 昭和37年 | 旧消防署を新しく建てるため、西南の隅の堀が埋め立てられ、いまの形になる |
出典:富山市郷土博物館「富山城址の変遷」
昭和29年の天守閣は、いまは富山市郷土博物館
昭和20年の空襲から立ち直りかけた昭和29年(1954年)、富山産業大博覧会にあわせて建てられたのが、いまの天守閣です。彦根城や犬山城など全国に残る天守を参考に、新しくデザインされました。いまは富山市郷土博物館になっています。
出典:富山市郷土博物館「富山城址の変遷」
郷土博物館では、マッチラベルとたばこラベルの特別展「昭和を灯す」が12月6日(日)まで開かれています(10月27日〜30日は休館)。
| 観覧料 | 大人500円(20名以上の団体は400円)。常設展も同じ料金で見られる |
| 無料 | 高校生以下/身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳を持つ人と介助者1名 |

古地図を重ねたリール動画
明治・昭和・いまの地図を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
城址公園のお堀を見ながら、「ここも昔は全部お堀だったのか〜」と思うと、ちょっと景色が変わりますね!
本丸の北側には、昔の神通川も流れていました。県庁が川の中だった話と、あわせて読んでみてはいかがでしょうか〜!

同じ前田家の城でも、高岡城のお堀は、町の人たちが守っていまも残っています。

空襲のあと、焼けた町の道路と区画を整え直した「戦災復興」の話も書きました。

この記事は2026年10月25日時点の、富山市郷土博物館「富山城址の変遷」をもとに書いています。地図は「今昔マップ on the web」(谷謙二)と地理院タイルから作成しました。




