🌊 黒部川は、流れが何本にも分かれる「黒部四十八ヶ瀬」だった
- 黒部川の扇状地は、愛本(あいもと)を頂点に、黒部市と入善町に扇の形に広がる
- 明治時代より前、流れは何本にも分かれ、洪水のたびに動いた。「黒部四十八ヶ瀬(しじゅうはちかせ)」「いろは川」と呼ばれた
- 明治時代、オランダ人技師デ・レーケの設計で霞堤(かすみてい)がつくられた
- 昭和12年(1937)から国が直接、改修工事を行っている。いまも「四十八ヶ瀬大橋」に昔の呼び名が残る
これまでの古地図シリーズでは、明治・昭和・いまの地図を並べてきました。ただ、黒部川の扇状地は「今昔マップ on the web」の範囲の外で、明治の地図がありません。そこで今回は、国土地理院の「治水地形分類図」に描かれた昔の川の跡と、1960年代の航空写真、いまの航空写真を並べて見ていきます。
昔の川の跡・1960年代・いまの写真で見る黒部川の扇状地

左の治水地形分類図では、扇状地いっぱいに、昔、川が流れていた跡(旧河道)が描かれています。中の1960年代と、右のいまの航空写真では、川の筋は、扇状地の真ん中の1本にまとまっています。
地図:地理院タイル(治水地形分類図・1961〜1969年の航空写真・シームレス空中写真)より作成。治水地形分類図の説明は国土地理院「治水地形分類図」
愛本を頂点に広がる扇状地
黒部川の上流から流れ出た土砂が、愛本から下流に扇状地をつくりました。扇状地は、黒部市と入善町に広がっています。
出典:国土交通省 北陸地方整備局 黒部河川事務所「第4回黒部川流域懇談会資料」/国土交通省「黒部川の歴史」
「黒部四十八ヶ瀬」「いろは川」と呼ばれた
明治時代より前、黒部川の流れは何本にも分かれ、洪水のたびに氾濫して動いていました。そのため「黒部四十八ヶ瀬(しじゅうはちかせ)」や「いろは川」と呼ばれていました。
いまも、両瀬(りょうせ)・川端(かわばた)・出島(でじま)など、川にちなむ地名が残っています。
出典:国土交通省「黒部川の歴史」/黒部河川事務所「第4回黒部川流域懇談会資料」
デ・レーケの霞堤と、国の改修工事
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 明治時代 | オランダ人技師デ・レーケの設計で霞堤がつくられる |
| 昭和12年(1937) | 国が直接、改修工事を始める(直轄改修) |
| 昭和20年代から | 急流の川の対策として、巨大な水制(すいせい:流れの勢いを弱める構造物)などがつくられる |
霞堤は、堤防にわざと切れ目を入れたものです。洪水のとき、切れ目から水を逆流させて勢いを弱め、もとの流れに戻すしくみです。
霞堤ができた年は、国の資料によって「明治24年」「明治29年」と書き方が分かれているので、ここでは「明治時代」としています。
いまも黒部川をまたぐ「四十八ヶ瀬大橋」に、昔の呼び名が残っています。
出典:国土交通省「黒部川の歴史」/黒部河川事務所「第4回黒部川流域懇談会資料」「黒部川 直轄80年」
地図を重ねたリール動画
昔の川の跡の地図と航空写真を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
いまは1本にまとまって流れる黒部川も、昔は扇状地いっぱいに何本も流れが分かれていました。四十八ヶ瀬大橋をわたるときに、「ここが四十八ヶ瀬だったんだな〜」と思い出すと、ちょっと景色の見え方が変わりますね!
同じくデ・レイケ(デ・レーケ)が関わった常願寺川の話や、黒部川の上流で生まれた宇奈月温泉の話も、あわせて読んでみてはいかがでしょうか〜!
黒部川が土砂を運んできた海岸、下新川海岸の話も書きました。



この記事は2026年10月27日時点の、国土交通省「黒部川の歴史」、黒部河川事務所「第4回黒部川流域懇談会資料」、国土地理院「治水地形分類図」をもとに書いています。地図と写真は地理院タイルから作成しました。




