🌊 下新川海岸は、古くから海に削られてきた海岸
- 下新川(しもにいかわ)海岸は、黒部市・入善町・朝日町の西部に続く海岸
- 古老の言い伝えや古文書によると、海岸線は古くから500〜600mも後退したという
- 原因のひとつは、富山湾特有の大波「寄り回り波(よりまわりなみ)」
- 昭和35年(1960)から国が直接工事を進め、昭和45年ごろから沖に離岸堤(りがんてい)がつくられてきた
これまでの古地図シリーズでは、明治・昭和・いまの地図を並べてきました。ただ、入善町・朝日町の海岸は「今昔マップ on the web」の範囲の外で、明治の地図がありません。そこで今回は、沖の様子がよく分かる1974〜78年のカラーの航空写真と、いまの航空写真を並べて、沖の離岸堤の移り変わりを見ていきます。
1970年代といまの写真で見る、入善町の海岸

右のいまの写真では、海岸の沖に、波を弱める離岸堤がずらりと並んでいます。左の1970年代の写真では、下飯野や吉原のあたりの沖に、離岸堤はまだ見えません(八幡の沖には、いくつか写っています)。
「500〜600m」は古くからの話で、この2枚の写真の間に海岸線がそれだけ動いたわけではありません。
写真:地理院タイル(1974〜1978年の航空写真・シームレス空中写真)より作成
古くから500〜600m後退したという海岸
下新川海岸は、黒部市・入善町・朝日町の西部に続く、約17.2kmの海岸です。古老の言い伝えや古文書によると、海岸線は古くから500〜600mも後退し、地区によっては家の移転が必要になったこともありました。
| 年 | 記録 |
|---|---|
| 1647年(正保4年) | 海岸が削られ、泊村の人たちが横尾村の下手に屋敷を移した |
| 1718年(享保3年) | 泊村の人たちが、横尾村から沼保村・荒川新村へ、もう一度移った |
| 1739年ごろ | 海岸侵食で、横山村で屋敷の移転 |
出典:国土交通省 黒部河川事務所「下新川海岸 パンフレット」「第3回 下新川海岸マスタープラン検討委員会資料」「海岸事業概要」
寄り回り波と、すぐ沖の海底の谷
| 原因 | 中身 |
|---|---|
| 寄り回り波 | 低気圧が去ったあと、風がおさまってから突然やってくる、富山湾特有のうねりの大波 |
| 海底の谷 | 海岸のすぐ近くまで海底の谷がせまり、海底の傾きがとても急。砂や小石が海岸の近くにとどまれず、流されてしまう |
黒部河川事務所の資料では、これらが侵食の原因と考えられています。
出典:黒部河川事務所「第3回 下新川海岸マスタープラン検討委員会資料」
国の工事と、沖の離岸堤
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 昭和35年(1960) | 国が直接、海岸の工事を始める(直轄海岸工事) |
| 昭和45年ごろ | 沖に離岸堤をつくり始める |
| その後 | 海岸線の後退はおさえられている |
| 平成20年(2008)2月24日 | 高波で、堤防や離岸堤などが被災し、浸水の被害 |
| いま | 離岸堤の改良や、副離岸堤づくりが続いている |
出典:黒部河川事務所「第3回 下新川海岸マスタープラン検討委員会資料」「令和8年度の黒部河川事務所の事業」
写真を重ねたリール動画
1970年代といまの航空写真を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
入善や朝日の海辺から沖に並ぶ離岸堤は、古くから海に削られてきた海岸を守るためのものでした。海沿いを通るときに、「この堤防が海岸を守っているんだな〜」と思うと、ちょっと景色の見え方が変わりますね!
海岸に土砂を運んできた黒部川の、昔の流れの話も、あわせて読んでみてはいかがでしょうか〜!

この記事は2026年10月27日時点の、国土交通省 黒部河川事務所の下新川海岸の資料(パンフレット・第3回 下新川海岸マスタープラン検討委員会資料・海岸事業概要・令和8年度の事業)をもとに書いています。写真は地理院タイルから作成しました。




