🌊 庄川と小矢部川は、明治の終わりまで河口の近くで1つになっていた
- 小矢部川は、古くから明治の終わりまで、河口の近くで庄川と合流していた
- 江戸時代、庄川の分かれた流れが小矢部川に注ぎ、小矢部川は庄川の洪水の影響を大きく受けていた
- 明治33年(1900)、庄川は富山県で最初の国の直轄河川に。新しい川を掘って、2つの川の河口を分ける工事が本格化
- 工事は大正元年(1912)に完成。いまは2つの川が、別々の河口から海に出ている
前回は、高岡城のお堀がいまも残っている話を書きました。今回は、その高岡の北、伏木のあたりの川の話です。いまは別々に海へ出ている庄川と小矢部川ですが、明治の終わりまでは、河口の近くで1つになっていました。明治・昭和・いまの地図を並べて見ていきます。
明治・昭和・いまの地図で見る、庄川と小矢部川の河口

左の明治43年(1910年)の地図は、ちょうど河口を分ける工事の途中です。海へまっすぐ向かう、新しい庄川の川筋がもう描かれています。中の昭和5年(1930年)の地図では、2つの川が別々の河口から海に出ていて、右のいまの地図とほぼ同じ姿です。
明治43年の地図では、小矢部川は「射水川」と書かれています。
地図:「今昔マップ on the web」(谷謙二)より作成/地理院タイル
小矢部川は、大伴家持が詠んだ「射水川」とされる
小矢部川は、大伴家持が、歌に詠んだ「射水川(いみずがわ)」であると言われています。
出典:国土交通省「小矢部川の歴史」
江戸時代、庄川の洪水が小矢部川にも流れ込んでいた
江戸時代、庄川の分かれた流れは小矢部川に注いでいて、小矢部川は庄川の洪水の影響を大きく受けていました。
そこで加賀藩は、1670年(寛文10年)から、庄川の分かれた流れをせき止める堤防をつくり始めます。この堤防は「松川除(まつかわよけ)」と呼ばれ、44年かけて1714年(正徳4年)に完成しました。
出典:国土交通省「小矢部川の歴史」「庄川の歴史」
明治33年、新しい川を掘って河口を分ける工事が始まる
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 明治33年(1900) | 庄川が富山県で最初の国の直轄河川になり、改修が本格化 |
| 工事の中身 | 新しい川を掘って小矢部川との河口を分け、河口から二塚村(いまの高岡市二塚)のあたりまで川幅を広げる |
| 工事の目的 | 洪水を防ぐことと、河口(伏木港)での舟の行き来を守ること |
| 大正元年(1912) | 工事が完成。2つの川は別々の河口から海に出るようになった |
この工事で、河口にある伏木港への影響も軽くなりました。
出典:国土交通省「庄川の歴史」「小矢部川の歴史」
新しい河口は、海に向かってラッパの形に
新しく掘った庄川の河口は、海に向かって広がるラッパの形に掘られました。新しい川の両岸には、水制(すいせい)として「木工沈床(もっこうちんしょう)」が置かれ、流れ道を守りました。
出典:国土交通省 北陸地方整備局 富山河川国道事務所の庄川の資料(PDF)
古地図を重ねたリール動画
明治・昭和・いまの地図を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
いまは当たり前のように別々に海へ出ている2つの川も、明治の終わりまでは1つの河口でした。伏木のあたりを通るときに、「ここで川を分けたんだな〜」と思い出すと、ちょっと景色の見え方が変わりますね!
同じ高岡の古地図の話、高岡城のお堀の記事もあわせて読んでみてはいかがでしょうか〜!

この記事は2026年10月26日時点の、国土交通省「小矢部川の歴史」「庄川の歴史」、国土交通省 北陸地方整備局 富山河川国道事務所の庄川の資料をもとに書いています。地図は「今昔マップ on the web」(谷謙二)と地理院タイルから作成しました。




