🌊 氷見の十二町潟は、昔「布勢の水海」と呼ばれた大きな潟だった
- 十二町潟の昔の名前は「布勢の水海(ふせのみずうみ)」。万葉集の大伴家持の歌にも出てくる
- 1647年の絵図では、長さ約2.3キロ・幅約1.2キロの潟。1662年に新田づくりが認められ、まわりの村が少しずつ田んぼに
- 1960年代までは田んぼで舟も使われ、その後、大がかりな排水工事が行われた
- いまは細長い水路と十二町潟水郷公園。オニバスの発生地として、1923年に富山県で初めて国の天然記念物に
これまでの古地図シリーズでは、明治・昭和・いまの地図を並べてきました。ただ、氷見は「今昔マップ on the web」では能登の区分に入っていて、明治や昭和の初めの地図がありません。そこで今回は、土地の高さを色分けした地図と、1960年代の航空写真、いまの航空写真を並べて、十二町潟の昔の姿を見ていきます。
土地の高さ・1960年代・いまの写真で見る十二町潟

左の土地の高さの地図では、山にかこまれた低い土地(青いところ)が広がっています。中の1960年代の航空写真と、右のいまの写真では、その低い土地が田んぼになっているのが分かります。
地図:地理院タイル(色別標高図・1961〜1969年の航空写真・シームレス空中写真)より作成
昔の名前は「布勢の水海」、万葉集にも
十二町潟の昔の名前は「布勢の水海(ふせのみずうみ)」です。万葉集の、大伴家持の歌などにも出てきます。
出典:コトバンク「布勢水海」(デジタル大辞泉プラス)
1647年の絵図では長さ約2.3キロの潟、少しずつ田んぼに
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1647年 | 絵図に、長さ二十町五十間(約2.3キロ)、幅十町五十間(約1.2キロ)の潟として描かれる |
| 1662年 | 潟の新田づくりが認められる。その後、まわりの村が少しずつ田んぼに変えていく |
| 1960年代まで | 田んぼの仕事に、舟(田舟)も使われていた |
| その後 | 大がかりな排水工事が行われる |
長さと幅のキロの数字は、絵図の「町」「間」を、富山みっけでキロに直したものです。
出典:コトバンク「十二町潟」(日本歴史地名大系・日本大百科全書)
国の事業で、十二町潟排水機場ができた
昭和52年度から平成4年度までの国の事業(国営氷見土地改良事業)で、十二町潟排水機場がつくられました。
出典:農林水産省「国営かんがい排水事業 氷見地区 事前評価」
オニバスの発生地として、富山県で初めての天然記念物
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1923年(大正12年)3月7日 | 「十二町潟オニバス発生地」として国の天然記念物に。富山県で初めて |
| 1979年 | オニバスの自生が見られなくなる |
| 2005年 | 26年ぶりに、十二町潟でオニバスの自生が見つかる |
| いま | 8月上旬ごろから、十二町潟水郷公園でオニバスの花が見られる |
1923年に指定された範囲は1971年に指定が外れ、いまの指定地は1969年に足された下流側です。その指定地の中では、オニバスの自生はまだ確認されていません。
オニバスは、大きな丸い葉が水面に浮かぶ水草です。夏に十二町潟水郷公園を歩くと、花を見ることができます。
出典:氷見市「十二町潟オニバス発生地(天然記念物)」/文化遺産オンライン(文化庁)「十二町潟オニバス発生地」
地図を重ねたリール動画
土地の高さの地図と航空写真を順番に重ねた動画を、富山みっけのInstagramに載せています。
さいごに
いまは田んぼが広がる十二町潟のまわりも、昔は万葉集に詠まれた大きな水辺でした。水郷公園の水路のほとりに立って、「ここ一面が水だったんだな〜」と思うと、景色の見え方が変わりますね!
同じように、潟が港に生まれ変わった放生津潟の話も、あわせて読んでみてはいかがでしょうか〜!

この記事は2026年10月26日時点の、氷見市「十二町潟オニバス発生地(天然記念物)」、文化遺産オンライン(文化庁)、農林水産省「国営かんがい排水事業 氷見地区 事前評価」、コトバンク(デジタル大辞泉プラス・日本歴史地名大系・日本大百科全書)をもとに書いています。地図と写真は地理院タイルから作成しました。




